◆編集経過(東京研究フオーラム) トップページ 東京社会教育史編集委員会[編]
『大都市・東京の社会教育─歴史と現在─』
東京社会教育史編集委員会・小林 文人[編集代表]
エイデル研究所 2016年8月刊行 A5判570頁 定価:本体4,500円+税
編集委員会・委員: 荒井 驕A井口 啓太郎(事務局)、石川 敬史(事務局)、
上平泰博、江頭晃子、遠藤輝喜、梶野光信、栗山 究、小林 文人(代表)
齋藤真哉(事務局長)、佐藤 進、井 正、野々村恵子(事務局)、的野信一
全国的に注目されてきた東京社会教育の体制は、1990年代後半以降大きく後退し、いま解体の危機に直面しています。本書は、「東京社会教育のあゆみ」に新しい光をあて、今も連綿と続いている歴史的な独自性を再発見し、これからの社会教育・生涯学習の可能性や展望を切り拓こうとするものです。
<お知らせ>
◆2016年8月29日 「大都市・東京も社会教育」(全国集会・この指とまれ)案内ちらし
◆〃 9月30日 出版祝賀会ご案内
旧杉並区立公民館 *『大都市・東京の社会教育』 (目次カット・木版画ー安井家蔵)
目次
まえがき 小林文人 →
本ページ・下掲
序章 大都市・東京の社会教育―その歴史をどうみるか 小林文人 →
下掲
第1部 通 史
通史T戦後東京の社会教育行政・施設史(戦後初期より1980年前後まで)小林 文人
1 戦後初期社会教育の動き(1945年〜)
2 社会教育法制下の社会教育行政・施設(1949年〜)
3 社会教育法「大改正」と社会教育行政の整備過程(1959年〜)
4 1960年代の社会教育施設の動き
5 社会教育行政の新たな展開と実践―躍動の時代(1970年代)
6 自治体の実践・計画化、施設委託の動き(1980年代へ)
通史U東京都の社会教育行政史(生涯教育・生涯学習施策の登場以降)梶野 光信
1 鈴木俊一都政の誕生と「生涯教育」の推進(1979年〜)
2 青島都政下における社会教育施策・事業の見直し(1995年〜)
3 石原都政下における生涯学習振興行政の抜本的見直し(1999年〜)
4 東京都における社会教育行政の再定位(2001年〜)
5 都立学校と連携する社会教育行政(2007年〜)
通史V 東京・多摩地域の市民活動史 江頭 晃子
1 1945年〜:学び・集い、社会・生活を建てなおす
2 1950年代:民主主義社会づくりへ
3 1960年代:企業・行政組織の対抗軸として
4 1970年代:権利意識の高揚と実現に向けて
5 1980年代:活動の発展、個別化・多様化
6 1990年代:市民組織・NPO 萌芽
7 2000年代:多様化と分断、原点回帰
8 学び、つながり、運動は続く
第2部 特論T 〜行政・施設史篇〜
第1章 職員・委員
1 23区社会教育主事制度のあゆみ 荒井
2 社会教育職員の群像 上田幸夫
3 セミナー方式による東京都立川( 東京都立多摩) 社会教育会館の職員研修
中森美都子・百瀬道子
4 公民館職員の不当配転闘争 ―小平市の事例― 穂積健児
5 〔コラム〕公民館職員の不当配転闘争 ―稲城市の事例― 霜島義和
6 社会教育に関わる委員・審議会活動の展開―行政・施設への市民参加の歩み
小林文人 →
本ページ・下掲
第2章 公民館
1 「三多摩テーゼ」につながる国分寺市公民館の実践 佐藤 進
2 学級講座における学習論の展開―「共同学習」の視点から― 的野信一
3 学級・講座への市民参加―小金井市の企画実行委員制度― 長堀雅春
4 東京都公民館連絡協議会の活動 進藤文夫
5 〔証言〕公民館と共に生きる―西東京市の公民館・社会教育― 奥津とし子
第3章 図書館
1 躍動する戦後東京の図書館づくり 石川敬史
2 〔証言〕母親たち手作りの文庫づくりと活動 広瀬恒子
第4章 博物館
1 戦後・東京都博物館政策―1950年代から1980年代の展開過程―君塚仁彦
2 住民の学びあいがつくりだす博物館 栗山 究
第3部 特論U 〜市民・学習史篇〜
第1章 女性
1 女性の学習のあゆみ ―「婦人教育」から「ジェンダー学習」へ― 野々村恵子
2 公民館保育室活動の成立と展開 村田晶子
3 〔コラム〕足立区女性総合センターの「男性改造講座」 井 正
4 学習と実践(運動)を結んだ生活学校 井上恵子
第2章 PTA
1 戦後初期・東京都でのPTA の普及と定着 酒匂一雄
2 〔証言〕民主主義の学びとしてのPTA 実践 味岡尚子
第3章 子ども・青年
1 地域が支えた子ども会・児童館活動 上平泰博
2 青年施設、青年教育実践のあゆみ 井 正
3 〔証言〕5区連協の活動を振り返る 藤木 宏
第4章 障害者・人権
1 障害者の社会教育実践の展開 井口啓太郎・橋田慈子
2 社会同和教育・人権教育の施策と実践 越村康英
3 〔コラム〕川村善二郎の仕事 川村善二郎
4 学生セツルメントの系譜 上平泰博
第5章 識字・基礎教育
1 夜間中学校と日本語学級の取り組み 関本保孝
2 東京の識字・日本語教育のあゆみ 横山文夫
3 公民館における識字実践 伊東静一
第6章 市民活動・NPO・コミュニティ
1 多摩地域の市民活動交流の拠点として
―東京都立川(多摩)社会教育会館市民活動サービスコーナー 山家利子
2 武蔵野市のコミュニティ政策と社会教育 田中雅文
3 福祉に係わる市民運動と社会教育とのつながり―板橋区の実践― 齋藤真哉
4 〔コラム〕高島平団地における自治活動 齋藤真哉
第7章 東京社会教育の諸相
1 基地問題に取り組む住民運動と公民館 佐藤 進
2 杉並公民館と1954原水禁署名運動 岩本陽児
3 幅広い学習と交流をめざして
―民主的な社会教育を発展させる都民の会23年間の活動― 野々村恵子
4 生活記録運動の展開―自分史学習から地域女性史づくりへ― 野々村恵子
5 「農のあるまちづくり講座」の実践 菊池 滉
6 総合型地域スポーツクラブ 齋藤尚美
7 〔コラム〕豊島区管弦楽団の40年 根岸 豊
8 高齢者学習の広がり 野々村恵子
終章 展望 東京社会教育 10の提言 編集委員会
資料篇
東京社会教育略年表(1945〜2015年)
東京社会教育統計資料(1975〜2015年)
1 自治体基礎データ
2 施設数
3 職員数
4 社会教育関係費
索 引
▼東京社会教育史編集委員会
(高井戸区民センター、140113)
前列・右2人目に山添路子さん(エイデル研究所)
『大都市・東京の社会教育─歴史と現在─』
・・・・・小林・執筆 まえがき
序章・東京社会教育の歴史をどうみるか・
通史T 戦後東京の社会教育行政・施設史(戦後初期より1980年前後まで)
特論1−6 社会教育に関わる委員・審議会活動の展開―市民参加の歩み
まえがき
私たち有志が本書の企画を初めて語りあったのは2012年の夏であった。東京社会教育史研究フォーラムを立ち上げ、定例研究会をスタートさせたのが同年秋。編集委員会事務局を中心に本書構成案を練り上げ執筆者各位に「執筆依頼」を発送した2014年の夏。早いものですでに満4年が経過している。当初は見通しも定かでなく、思えば苦しい歳月であった。
編集委員会は執筆依頼文に次のように書いている。「東京には、戦後の苦難の道程のなか、社会教育の創造に向けて格闘してきた歴史があります。社会教育に関わる行政の組織化、施設づくりや職員の取り組み、さまざまな学習や実践の歩みの歳月には、多くの先人(市民を含む)たちの努力が蓄積されてきました。しかし、とくに1990年代後半以降、半世紀にわたる東京社会教育の体制は、大きく後退し、いま解体しつつあると言っても過言ではありません。全国的に注目されてきた東京の社会教育実践もいま忘れ去られ、風化が進ん でいます。」
本書は、戦後東京社会教育の蓄積が壊れはじめ、とくに東京都の社会教育行政が解体していく危機感から出発している。行政や施設の変貌というだけでなく、社会教育の主体である市民の記憶そのものから社会教育が消えつつある喪失感も否定できない。私たちは今 あらためて、社会教育の歴史を再発見すること、歴史をたぐり記憶を呼び戻すこと、その記憶を記録化すること、大都市東京の社会教育を再創造する道を確かめること、そのような作業を急がなければ ならないと考えてきた。それは、東京独自の“社会教育の復権”への課題意識ということもできよう。
東京都は20年ほど前に『東京都教育史』(同編集委員会、東京都立教育研究所)通史編1−4(4巻、1994−1997年)を刊行している。近代学校教育史とともに、明治初期から大正・昭和(戦後改革 期1955年まで)にいたる体系的な社会教育通史が掲載されている。この教育史編纂事業は、そのあとに通史編5(第5巻、1955より1989年まで)が出版される予定であった。社会教育だけでも10名をこえる執筆者による原稿が用意されたが、東京都当局の「行政改革・財 政健全化施策」により突然発行が停止される事態となった。それからすでに20年近くが経過している。あのとき関係者が心をこめて執筆した(おそらく3000枚に近い)原稿はいまどこを漂流しているのであろうか。本書の企画は、当局の場当たりで理不尽な処分により、ブランクとなってしまった東京社会教育の現代史を埋める思いからでもあった。
本書は、昭和戦後改革期(1945年−)から現在にいたる大都市東京の社会教育現代史を語り綴ろうとする企画である。本書編集にあたって心がけたことは次の諸点であった。
1.戦後東京の社会教育行政・施設そして市民活動について通史を試みる。70年にわたる社会教育・市民活動の流れ、その歴史的特徴を明らかにする(通史編)。
2.大都市東京の膨大な社会教育史について、可能な限り広い視野をもって、重要な事項を拾い出す。風化しつつある事実をしっかり記録し、稀少な史料・証言等を収録する。
3.従来の社会教育行政の枠に閉じこもらず、学校教育、関連行政、 文化、市民活動等に関わる社会教育的な実践・運動に着目し、大都市特有の多彩な社会教育史を目指す。
4.歴史当事者の記憶・資料・証言と次世代の社会教育の担い手が対話する機会とする。
5.歴史研究を通して現在の地歩を確かめ、これからの展望と可能性を追求していく。大都市東京の未来にとって社会教育の果たす固有の役割について提言を試みる(終章)。
もちろん、このような私たちの思いがすべて実現できたわけではない。今回の東京社会教育史を掘る作業を通して、あらためて巨象にも似たその大きさを実感させられてきた。行政・施設側が公的に作成・発行してきた諸記録は、70年の歳月を経て、膨大な量にのぼるが、あわせて諸団体・市民たちの学び・交流・活動の記録・レポート・ミニコミ類まで含めると、想像をこえる拡がりとなる。その多くが(図書館等に収蔵されることなく)散逸し消失されつつある事実をつきつけられる歳月でもあった。社会教育行政や市民活動に実際に関わった人々の生きた記憶も記録されないまま忘れ去られようとしている。本書が上述の解体や消失の流れに抗して、復権と再創造の道へのステップとなることを願っている。
私たちの企画・編集方針に賛同いただき、執筆にあたった40人にのぼる各位にあらためて御礼を申し上げたい。幸いなことは、執筆者のほとんどが執筆テーマに関わって“生きた記憶”の持ち主であったことだ。貴重な証言やコラムも寄せていただいた。それぞれのテーマについて、取り上げる時期や視角・方法は多彩に拡がっている。編集委員会としては執筆者各位の課題意識や個別性を尊重して、あえて無理な統一や調整は行わなかった。出典・文献などの記述についても執筆者により多少の精粗がみられるが、個別論文・報 告の多様性にむしろ注目していただき、ご了解いただければ幸いである。
本書が内容・方法ともに多くの課題を残していることを私たちは自覚している。大都市東京の社会教育現代史が創出した貴重文書、 次の世代に語り継ぐべき「資料集成」等の作業についても、紙数の制約があり、果たせぬ夢に終わっている。本書をバネにして、次なる課題として他日を期すことにしたい。
本書出版を実現してくださったエイデル研究所(代表・大塚智孝 氏)、多忙な編集委員会と多数の執筆者への誠意あふれる努力を惜し まれなかった編集担当・山添路子さんに深く感謝したい。2016年8月1日 編集委員会を代表して 小林
文人
序章 大都市・東京の社会教育−その歴史をどうみるか− 小林 文人
1 戦前日本の社会教育について
日本の社会教育は、歴史的に農村的な地域性をもって形成されてきたといわ れる(碓井正久「社会教育の概念」、長田新監修『社会教育』お茶の水書房、 1961年)。では日本の大都市、変貌きわまりない現代都市にとって、社会教育 とはいかなる存在であったのか。歴史的にどのように登場し、どのように展開 し、大都市のなかで果たしてきた役割をどう評価することができるか。とりわけ首都・東京の社会教育の歩み、その現代史をどうとらえることができるか。
戦前(1945年―太平洋戦争以前)の東京の社会教育については、東京都(東 京都立教育研究所・当時)が編集・発行した『東京都教育史』通史編(一−四、 1994−1997年)各巻の「社会教育」各章に充実した通史が収録されている(「通史編」五は未刊)。 私たちが戦後社会教育の歩みを研究していく上で、戦前東 京の社会教育がどのような歴史をたどってきたかを知ることは重要である。 まず、概括的に戦前社会教育のいくつかの歴史的特徴をあげておこう。
明治期の「通俗教育」期から「社会教育」としての行政が動き出すのは大正期であった(東京市に社会教育課・1921年、文部省に社会教育課・1924年)。しかし社会教育法制(法律主義)は未発のまま、勅令主義による国家的統制色の強い上意下達の社会教育行政が始動していく。当時の社会教育主事(東京府に社 会教育主事・1926年)は専門職ではなく「天皇の官吏」であり、社会教育委員の制度は教化動員体制の一環として位置づけられていた。戦後の公民館のような社会教育固有の施設は制度としては存在しない。官製的な青年団や婦人会が 地域網羅的に組織されてきた歴史であった。昭和ファッシズムのなか社会教育 は戦時下の国家総動員体制に組み込まれ、戦争への道を歩んでいく。太平洋戦争下、東京市でも社会教育課は解体し教化課へ、東京都制(1943年)では「兵事青年教育課」となって終戦を迎えた。「社会教育行政という点では末期的なものとなってしまった」という経過であった(『東京都教育史』通史編四、1997 年、586頁)。
2 光彩を放つ東京独自の社会教育的活動
戦前の東京社会教育は、このような国家主義的な社会教育政策・行政の枠組みのなかでの展開を強いられてきた。しかし行政的な枠組みから離れて、大都市・東京の民衆史、社会運動史を含めて多元的な視点から捉えなおしてみると、東京ならではの「社会教育」的な多彩な活動の歩みを発見することになる。上記『東京都教育史』「社会教育」通史編にはその貴重な記録が収録され躍動的な歴史が興味深い。以下、主要な項目のみあげてみる。
明治期の私学における大学拡張の歩み(12大学の事例、なかでも早稲田大学=東京専門学校の校外生徒は明治末までに25万人を超えた)。近代的労働運動の序幕に花を開いた片山潜のキングスレー館(神田三崎町−青年倶楽部、市民 夜学校、大学普及講演、職工教育会等)。近代的な博物館や図書館への胎動もみられた。大正期においては、国の社会教育行政が始動する時期にあたり、市民教育・成人教育の事業が登場するが、東京ではとくに大正デモクラシー運動を 背景に、少年団、連合青年団、東京連合婦人会とともに、新婦人協会、社会主義的な立場からの赤瀾会、あるいは生活改善運動、消費組合運動(城西消費組 合等)の活発な取り組みが見られた。職業婦人社、友愛会婦人部、そして労働組合・労働者教育の展開のなかで日本労働学校・労働者教育協会の組織的な活動が注目される。
この時期、東京市教育局社会教育課の所管として東京自治会館が設けられた一方、労働争議や貧困問題の情勢を背景に、民間の隣保館事業が始まり、東京大震災下に帝大セツルメント(事業として成人教育、調査、児童、医療、相談、
市民図書館の各部)の歴史的な発足をみた。昭和期にかけては本所公会堂、日比谷公会堂(新藤浩伸『公会堂と民衆の近代』東京大学出版会、2014年、
第2−3章)が登場する。また大正末期から東京市公営の隣保館の設置が始まり、昭和初期
には「市民館」網(計11館)が形成された。市民館の事業として社会調査、教化、福利、相談、体育、慰安、自治活動が掲げられていた。
本郷区根津の藍染市民館の場合、「公民館中心」の理想郷建設を提唱した菅原亀五郎を館長に迎え、主任保母長ら13 名の職員体制をもって、多面的な「社会教育」的活動を目指した一時期があった。館長自ら積極的に関わった「市民部」活動の中心に「藍染高等国民学院」があり、女子国民学院等の構想も記録 されている(上掲、『東京都教育史』通史編四、1997年、934−36頁)。
これらの隣保館・市民館等の事業はもちろん東京全域ではなく、施設・事業 が継続性をもって広く普及されたとは必ずしも言えない。しかし大都市独自の 社会教育的活動が展開されてきた事実は注目される必要があろう。その事業は一様ではないが、ある程度共通して成人教育(教化)の視点があり、市民・労 働者の学びの活動がめざされた。社会事業と連動して地域問題に取り組むネッ トワークづくりの努力もあった。まさに大都市の社会教育的活動として光彩を 放つ歴史が見えてくる。
その意味で、東京社会教育の戦前史は、国家的統制と戦争への教化動員体制 に呻吟しながらも、近代都市としての拡がりのなかで、大学開放、労働組合運動、協同組合活動、社会事業、セツルメント等の活動とも響きあいながら、東京独自の展開をたどってきた歴史があったのである。
3 戦後社会教育・再生の歩み
戦後(1945年以降)すでに70年が経過している。この歳月は、明治初期から 大正期を経て昭和・敗戦にいたる長さに相当する。東京は戦後、戦争による未 曾有の戦災・破壊・混乱からの再出発であった。そのなかで社会教育はどのように再生し、いかなる展開をとげてきたのか。
振り返ってみると、戦後東京には復興に向けて血のにじむ格闘があり、戦後 教育改革理念による新しい社会教育の創造の取り組みが始まった。占領下の民主主義普及、行政の整備・事業の取り組みの努力とともに、社会教育施設や職員の実践への期待、市民の学びと参加、諸団体の活動・運動への模索が続けられた歴史が見えてくる。しかしその足どりは単純ではなかった。
戦前から戦後への社会教育改革期において、まずいくつかの点を確かめておきたい。第1は、戦前の国家主義を脱し、新たな戦後民主主義・国民主権に立脚する教育改革が進展し、その理念に基づく社会教育法制(法律主義)、社会教育 行政が登場したことである。戦争への道が反省され、平和を希求する憲法の普 及が戦後直後の社会教育が取り組むべき事業であった。国民の「自己教育」を 奨励する条件整備(教育基本法10条)、環境醸成(社会教育法3条)を任務とす る社会教育行政の理念が唱導され、地方自治とりわけ市町村主義の原則に立脚 して、公民館・図書館・博物館等の施設設置、専門的な職員配置の方向が期待 された。
しかし第2に、このような戦後社会教育の理念は直ちには現実化しなかった。 とくに東京の場合、激甚な戦災からの復旧の課題が山積し、新しい社会教育への条件整備にかかわる財政的条件は皆無に近かった。教育行財政としてみた場合、六三三制による義務教育「新制中学校」新設に追われ、それが一段落したところで、急激な人口流入・都市膨張・児童生徒激増に追われ、社会教育整備の財政的条件は改善の見通しをもてないまま歳月が経過していくという状況で あった。
第3に、戦前・戦中から戦後への移行については、“継承と断絶”の複雑な関 係を残していた。戦後改革理念や新しい社会教育法制は、戦前との画期的な“断 絶”の側面をもちつつ、戦前体質の温存や戦後改革の曖昧さは否定できず、新しい社会教育をすすめる過程には「数々の継承・温存・復活という複雑な関係」があったことも事実であった(国立教育研究所『日本近代教育百年史』8「社会 教育(2)」 1974年、628頁)。東京の場合は、古い地域構造を維持してきた農村と比べて、相対的に“継承”の比重は少なかったと言えようが、現実の社会教 育行政をすすめる組織の硬直性や一部の社会教育関係団体の古い体質が、しば しば改革への努力や実践を阻害することにもなったのである。
4 戦後東京社会教育の独自性
国レベルで打ち出された戦後社会教育の諸制度は、東京では順調には定着していかなった。たとえば戦後いちはやく文部次官通牒(1946年)によって設置奨励され、社会教育法(1949年)の基幹施設に位置づく公民館についてみれば、東京での普及はまことに遅々たるものであった。社会教育委員の制度について も、法制定後とくに23区において当初はほとんど設置されなかった。他方、東 京独自の「青少年委員」が都条例によって各区で活動を始め(1953年)、また 公民館がほとんど設置されなかった特別区に都市型施設としての「青年館」が 置かれた(1959年−)。東京社会教育が独自の側面をもって動いてきた象徴的 な経過であった。(別稿・通史参照)。
東京では、上述した戦後事情とくに財政的条件が不十分にしか対応できな かったことにより、社会教育にかかわる条件整備は(人口規模から考えると) 全般的に貧弱な水準のまま推移してきた。社会教育委員の会議等の公的な委員 会が構想した計画(たとえば「東京都社会教育長期計画」1965年)や図書館振 興策(たとえば東京都図書館振興対策プロジェクトチーム「司書職制度を中心 とした区立図書館振興策」1972年)等は、東京独自の施策として実現しないま ま構想だおれに終わったものが少なくない。
東京独自の社会教育の展開は、公的条件整備の課題と結びついて、市民運 動・住民参加が胎動し、歳月の経過のなかで、市民・住民間のさまざまなネッ トワークや運動が多層に拡がってきたことであろう。杉並区立公民館に集う母 親たちの読書会は原水爆禁止署名運動に取り組み、全国的な反核運動の大きな 端緒となった(1954年)。国立市立公民館は青年・学生を含む地域民主化をめ ざす市民運動によって設立が実現された(1955年)。 1960年代後半から70年代 の躍動期にみられる各地の公民館・図書館づくりの住民運動、学級講座等の公 的事業に関わる多面的な住民参加の取り組みなど、いずれも全国的に注目され た東京独自の社会教育運動と言うことができよう。(丸浜江里子『原水禁署名運 動の誕生』凱風社、2011年、徳永功『個の自立と地域の民主主義をめざして』 エイデル研究所、2011年、小林文人「三多摩における社会教育をめぐる住民運 動」東京都立多摩社会教育会館『戦後三多摩における社会教育のあゆみ』第\ 集、1997年など)。
5 学習権の思想と生涯教育をめぐる動き
家永三郎氏が提起した教科書裁判は「国民の教育権」(杉本判決・1970年)への論議を広く巻き起こしたが、社会教育に関わる権利論もその一つの拡がりであった。社会教育推進全国協議会が主催する全国集会1971年大会は、初めて「権利としての社会教育とは何か」をテーマに掲げた(第11回、東京稲城)。図 書館関係者では「知る自由と図書館」のあり方を追及し、公民館関係者では、たとえば新しい学級講座をめざす“学級革命”をめざす取り組みがあった。(東 京都教育庁社会教育部「新しい学級講座をめざして」1974−7年)
東京都社会教育委員の会議「東京都の自治体行政と都民の社会活動における市民教育のあり方について」答申(1973年)では、社会教育行政は市民運動の学習要求に応えるべきだとし、「都民は知りたいことを知る、都民は学びたいことを学ぶ、都民は集会し学習する自由をもつ」とする“都民の学習する権利” を提起した。(東京都教育委員会、同答申、1973年、8頁)。この学習権宣言は、東京各自治体の社会教育行政がかかわる公的事業のありかたを問い直し、地域の学習サークルの自主性や権利性を鼓舞することになった。1970年代の東京社 会教育は、学習権の思想と運動がひろく広がった躍動の時代ということができ よう。
当時の国際的な動向をみると、東アジア(中国、韓国等)はそれぞれの国内事情(中国・文化大革命、韓国・軍事政権、台湾・戒厳令下)をかかえ、相互の交流提携をすすめる状況にはなかったが、ユネスコ・欧米諸国では「生涯教育」が提唱され(P. ラングラン、1965年)、「成人教育の発展にかんする勧告」(ユネスコ第19回総会、1976年)や、多くの影響を与えた「学習権宣言」(同・ 世界成人教育会議―第4回、1985年)が提唱されている。東京都社会教育委員の会議「都民の学習する権利」宣言は、その経緯・規模は異なるが、
ユネスコ「学習権宣言」に先立つこと10年あまり、先駆的な提起であったことになる。
国際的な潮流としての生涯教育の思想は、東京の社会教育行政の実際には、どのように影響したのであろうか。社会教育法体制に基づく諸施策(基礎自治 体中心、公民館等の施設、社会教育関係団体、社会教育委員制度など)がよう やく普及定着をみせていた1970年代は、東京でも生涯学習の思想が論議されは じめた時期でもあった。しかし実際の行政施策や計画として具体化される状況 ではなかった。「生涯教育」は上(国)からおろされてくる施策、あるいは財界 寄りの流れとして、市民にとっては、まだなじめない構想にとどまっていた。
6 生涯教育施策と社会教育解体の動き
東京都は1967年から3期12年、美濃部知事によるいわゆる革新都政の時代であった。社会教育の戦後史としては、決して豊かな水準とは言えないとしても、社会教育の一定の条件整備が具体化され、それと連動して活発な住民参加が拡がり、さまざまな市民運動の高揚をみて、かってない躍動期といえる時期を迎 えていたと言うことができる(別稿・通史参照)。
1979年より鈴木俊一知事が登場する。社会教育をめぐる路線は大きく転換して、1980年代以降は積極的に「生涯教育」推進策がとられる。鈴木知事以降には、青島知事・石原知事と続く中で、皮肉にも戦後「社会教育」の蓄積を軽視する諸施策が重なり、加えて年度によって都財政の悪化の影響が大きく、次第に「生涯教育」施策自体も放棄される事態となり、結果として社会教育「解体」に作用する経過をたどることとなった。
この間、国レベルでは、中央教育審議会が「生涯教育について」答申(1981 年)、臨時教育審議会は教育改革として「生涯学習体系への移行」(1987年最終 答申)が打ち出されている。また第2次臨時行政改革調査会による「新行革大綱」(1983年)「地方行革大綱」(1984年)路線による「行財政改革」施策が併行して動いた時期であった。この時期の「生涯教育」推進策が、東京で具体的にどのような現実となって推移することになるのか。実際に展開されていった経過を私たちは深刻に受けとめる必要がある。この間の主要な特徴・問題点を 整理すると、次のようなことが言えるだろう。
(1)生涯教育推進の施策は、知事(一般行政)部局の主導でトップダウン型行政として進められ、教育行政当局は周縁に追いやられていったこと。知事が交代し政権が移ると諸施策の比重も移り、生涯教育の制度化や施策の継続性が担保されず、財政状況によって推進施策は放棄されてしまったこと。
(2)生涯教育への教育改革が、行財政改革(予算縮小、職員削減、民間委託等)と連動して動いた事態は深刻であった。生涯教育推進にほんらい必要な制 度設計、専門職配置、予算充当等の基本的条件整備の課題が真正面から取 り組まれてこなかったこと。
(3)生涯教育が社会教育と結合・連携する視点をもちえず、社会教育戦後史のなかで形成されてきた社会教育の条件整備、地域基盤、重層的な住民参加や市民ネットワークの蓄積と生涯教育の施策は遊離してしまったこと。
(4)社会教育が解体されようとする場合、その防波堤として社会教育法は有効に機能せず、また生涯教育推進にとって「生涯学習の振興のための施策の推進体制等の整備に関する法律」(1990〔平成2〕年)が必要な法的規定をほとんど用意していないこと。
通史(第U部)に詳述しているように、1990年代後半からの20年、私たちは東京都社会教育の蓄積の多くを失ってきたことに愕然とする。歴史的に重要な 役割を果たしてきた東京都「社会教育委員の会議」は条例廃止となった(2013 年)。最盛時には80人を数えた都社会教育主事集団は縮小を重ね、いま戦後発足時(1951 年)の13人体制に戻ってしまった。東京都社会教育のこのような 解体現象が区市町村社会教育に与えた影響は少なくなく、また同時に全国的に悪い波及のないことを祈るのみである。
大正期の東京に「社会教育」行政が始動して約1世紀が経つ。その蓄積の歩みを振り返ると、この20年の暗い「解体」の歴史をこのまま見過ごしていいは ずがない。大都市・首都東京にとって充実されるべき社会教育・生涯教育制度 の重要性を再発見していく必要がある。次の20年、50年そして100年の未来をめざし、すべての市民の生涯にわたる「学習権」保障を実像化する方向で、新たな再生・創造の歩みを刻んでいく課題を再認識しておきたい。私たちは、い まあらためて“社会教育の復権”に努めなければならない。
7 本書の構成、時期区分など
東京社会教育の歩みについては、「まえがき」にもふれたように、戦前から戦 後1955年前後までの通史が公刊されている(前掲『東京都教育史』通史編一− 四、1994−1997年)。またそれ以前に、戦後社会教育史として1945年から1965 年前後までの歴史が記録されている(東京都立教育研究所「戦後東京教育史」 下巻「社会教育編」1967年)。前者については、その後の1989年(昭和期)ま での「通史編・五」が(執筆担当者により原稿が提出されたはずなのに)未刊のまま、すでに20年近くが経過した。後者は、「学校教育とならび車の両論をなす社会教育」(同・序)の歩みとして、諸史料を含む記録であるが、出版市場に広く公刊されたものではなく、容易に入手できなくなっている。いずれにして も1965年以降の東京社会教育の現代史は、通史的な作業が未発のまま、激動の歴史に翻弄され埋没したままになっている。さらにいま、社会教育「解体」が 危ぶまれる事態を迎えている。
本書は東京社会教育の戦後から現代(1945−2015年)について、主要なテー マについての通史の試み(第1部)と、多様な社会教育の施設・職員・活動・実 践等の歩みを再発見する諸研究(第2部・第 3部)を集めて構成されている。いずれも多くの課題を残しているが、編集委員会の共同作業として現在までの到達点を確かめ、東京社会教育の現代史としてまとめてみることとした。
第1部・通史には、(1)東京の社会教育行政・施設史(1945−1980年前後)、(2)東京都の社会教育行政史(1979−2015年)、( 3)三多摩の市民活動史(1945 −2010年代)の3本を収録している。一応の時期区分として、@1945年−戦後 初期・混乱期、A1949年−社会教育法制下・創成期、B1959年−法改正・整備期、C1970年代−躍動期、D1979年−生涯教育振興期、E1996年−行財政改革による社会教育行政解体期、F2002年−学校との連携・再構築期、に区切り、この流れで記述をすすめている。三多摩の市民活動史については、ほぼ10 年きざみの展開を追うこととした。
第2部及び第3部は、社会教育史の特論・各論について、できるかぎり幅広い 視野をもって関連項目の歩みを再発見する努力をした。個別の行政・施設・職 員・団体・活動・実践・運動等の諸項目(目次参照)について、それぞれの特 徴的な歴史展開に焦点をあてている。必要に応じて証言・資料・コラム等の小記録を含めている。
私たちは、以上の通史・特論・各論による歴史を掘る作業を通して、現在を確かめつつ、未来を展望していく視点も論議してきた。大都市・東京のこれか らの社会教育の再生・再構築に向けて、新しい方向を追及していく作業は、厳しい茨の道ではあるが、今後に向けてあえて「10の提言」を提示してみた。編集委員会としては、未来をみつめ、思いをこめて語り合ってきた。今後に向けて論議の環が拡がっていくことを期待している。
第1部 通史T
戦後東京の社会教育行政・施設史
−戦後初期より1980年前後まで− →(原文)■
第2部 特論T 〜行政・施設史篇〜
第1章 職員・委員
6 社会教育に関わる委員・審議会活動の展開
−行政・施設への市民参加の歩み− 小林 文人
1,戦後・社会教育関係「委員」制度の登場
戦後社会教育法制は、社会教育行政に関わって社会教育委員の制度を設け、また公民館・図書館・博物館の公的社会教育施設には、それぞれの法制に運営審議会・協議会の規定が用意され、都及び区市町村にこれら組織を「置くことができる」とした。すべて任意設置の規定であるが、公民館についてはとくに「公民館運営審議会を置く」と義務設置の規定(社会教育法29条・制定時)を設けていた。公民館は「民主的に運営されなければならない」とする初期公民館「公民館委員会」(公選を原則とする委員選出)制度を前史としていたからである。(1)
社会教育委員の制度については、1946年「都道府県社会教育委員並に市町村社会教育委員設置について」(文部次官通牒、昭和21年)によりその設置が奨励された。戦前には昭和初期の教化動員体制下の社会教化委員(1930年)、それを引き継ぐ社会教育委員(文部次官通牒「社会教育の振興に関する件」、1932年)の制度を前史とし(2)、国家主義的な社会教育の普及と上からの行政浸透という歴史的背景をもっていた。それらが戦後改革期において民主主義的な社会教育への志向、行政への民意反映・住民参加という新しい理念に立って、戦後社会教育関係「委員」制度は再生された。歴史的に、いわば上からの行政浸透と下からの住民参加という二つの側面を併せもちながら、ときにこの二側面が併立拮抗しつつ、戦後東京の委員制度は展開していったと見ることができる。
2,社会教育委員の設置動向
東京の社会教育委員の設置状況は全国動向と比べて、むしろ微弱なスタートであった。東京都は社会教育法の制定に伴い、1950年に「社会教育委員の設置」条例を設け、1951年初頭より社会教育委員を委嘱、審議活動を開始している。しかし(通史に指摘されている通り)区部の社会教育委員制度はあまり進展せず、その後十年が経過した1961年の時点で品川・中野・世田谷の3区が設置したにとどまっている。特別区制度による都の財政調整・積算基礎にも算定されていなかった。市町村部では、1959年(昭和34年)社会教育法改正(社会教育関係団体補助金の支出にあたっては「社会教育委員の会議の意見を聴いて行わなければならない」‐第13条、青少年教育に関する「助言と指導」規定−第17条3項)を契機として、社会教育委員制度への関心がひろがり、18市町村が設置している。(3)しかしその具体的な活動状況は、この段階で必ずしも活発であったとはいえない。
1960〜70年代以降になると、これらの社会教育委員の会議がしだいに活発化し独自の存在感を示すようになってくる。もちろん区市町村によって一様ではなかったが、社会教育法に基づく諮問に応える答申、あるいは建議や意見具申・助言等が積極的に行われてきた歴史がある。振り返ってみて、それらは東京社会教育史の重要な一側面として注目しておきたい。教育委員会制度自体が財政的な権限をもたず、その答申・建議等が具体的な施策の実現に結びつかない場合も少なくなかったが、社会教育施策の方向や行政理念を提示し、あるいは具体的な役割や課題について提言が重ねられてきた経過は、都・各自治体の社会教育の展開に大きく寄与してきたと言えよう。
たとえば東京都の社会教育委員の会議についてみてみると、「東京都社会教育長期計画」答申(1965年)は、広域社会教育センター構想として具体化し、多摩地区の社会教育活動の拠点となった東京都立立川社会教育会館の設立(1967年)に結びついた。「東京都の自治体行政と都民の社会活動における市民教育のあり方について」答申(1973年)は、都民の「学習権」理念を先駆的に提言し、その後の市民主体による社会教育実践の流れを引き出す契機となるものであった。(4)
ちなみに立川社会教育会館には都条例により運営審議会が設置されていた。会館の果たすべき役割について「住民・市町村に役立つ会館の道」を答申(1972年)している。「ア、住民の自由な交流の広場として」「イ、市町村社会教育活動のサービス・センター」「ウ、あらゆる教育・文化活動の連帯の拠点」など会館の具体的な役割論の提示は、「新しい公民館像をめざして」(いわゆる三多摩テーゼ、1973年)のいわば都立社会教育施設・広域社会教育センター版の構想として注目された。(5)
3、青少年委員制度と公民館運営審議会の独自な展開
通史に明らかなように、東京都の場合とくに区部において、社会教育委員の設置はなかなか進まなかったが、他方で東京独自の委員制度として「青少年委員」が設置された。戦後混乱期のなか首都東京の青少年問題の深刻化を背景に「東京都青少年問題協議会」(条例、1953年、知事部局)の動きがあったが、それとならんで社会教育行政として「青少年委員」の活動があった。都社会教育委員の会議「青少年教育振興について」(助言、1952年)が契機となり、都条例により「青少年委員」制度が発足したのは1953年(昭和28年)。諸文献・資料等があり、通史にも触れているので、ここでは割愛する。(6)
さて、前述したように「公民館運営審議会」(公運審)は、制定時・社会教育法によってすべての公民館に組織された重要な審議会の位置づけであった。公民館運営が基本的に民意を尊重し住民の参加・自治によってすすられていく上での象徴的な制度でもあった。東京の公民館の設置動向は全国的にみてむしろ後発であったが、公民館運営審審議会の活動についてはきわめて先進的な事例があり、全国的な注目を集めてきたところがある。いくつかの事例を通してみてみる。
東京都公民館連絡協議会(都公連、1951年結成)は、その30周年記念事業として「東京の公民館三十年誌」をまとめている。貴重な史資料を収集し興味深い調査活動を行っているが、公運審についても、1980年の時点で全公民館(区部2館、多摩23館‐当時)の興味深い実態調査を収録している。(7)
全公運審25の委員総数は298。とくに2号委員(市民団体代表)の選出について、教育・文化・産業・労働・社会事業等の多彩に分野に拡がっていること。選出方法は「分野別団体を招集し会議、選挙によって決める」4、「分野別代表者による決定・報告」13、が主流であり、行政側による「公民館で決定」は数事例にとどまること。社会教育委員との兼担も少なく、大部分が公民館運営審議会として独立性をもっていたこと。当時の社会教育法は、館長任命にあたって「あらかじめ公民館運営審議会の意見を聞かなければならない」と定めていたが(同法第28条2項)、ほとんどの公民館において文書あるいは口頭によりその手続きがとられていること、などが報告されている。
公運審は1号委員(学校教育)3号委員(学識経験)と並んで、とくに2号委員の占める比重が大きく(委員数の約6割)、市民参加による選出が一つのテーマになってきた。たとえば町田市の場合、市議会に「2号委員を重視し、実際の公民館活動をしている婦人、青年等から選出してほしい」趣旨の請願が出された(1975 年)。委員選出にあたって説明会、学習会が開かれ、11人の委員が選ばれるまで7回の調整会議が開かれ、同部門の団体が互いに話し合いを重ね人選した。(8) 田無市では、「婦人団体代表の委員は、市内婦人団体が一堂に会して、選挙で選んでいる。選挙にあたって、推薦者は推薦の弁を、候補者はその抱負を述べてから投票に入る。委員に選ばれた者は、1年に2回の報告会が義務づけられる。この委員選出の方法も、婦人団体の運動の成果である」という経過であった。
この選出方法は「婦人団体」のみでなく、公民館利用者団体その他にも拡がっていたという。(9)
社会教育委員の選出にあたって、世田谷区では委員制度創設(1964年)後10余年を経て、市民学習グループ連絡会等による委員“準公選”の取り組みが報告されている。(10)
4、積極的な答申・建議活動
委員会や公運審の答申・建議・助言等の活動は、しばしば社会教育行政(公民館等の施設)の方針・計画・事業等を牽引する役割を果たしてきた。活発に公運審活動を展開してきた国立市公民館の場合、ほぼ毎月開催の定例会議、課題による小委員会活動、あるいは日常的な実践参加等をベースに、任期2年の記録がまとめられている。その間には社会教育法改正問題に対する「声明書」(1963年)が出されたり、あるいは「公民館のあるべき姿と配置について」(1973年)、「公民館改築について」(1976年)の答申等がまとめられてきた。館長人事について自主的に「要望書」を提出することもあった(1989年)。各期の「審議のまとめ」は公運審記録にとどまらず、それ自体が貴重な公民館史であり地域史の側面をもって集積されてきたといえよう。(11)
1970年代に登場する障害者青年学級の取り組みは、小金井市(1974年)、国立市(1977年)の場合、それぞれの公民館運営審議会「答申」によって新しい躍動の歩みを踏み出したものであった。(12) 前述した東京都社会教育委員の会議による「市民教育のあり方」答申(1973年)は先駆的に「都民は学びたいことを学ぶ」権利を提唱したが、それから20年近くを経過して、保谷市生涯学習推進計画策定審議会は「保谷市生涯学習推進計画策定について」答申(1995年)し、そこに情感豊かに「保谷市民の学習権宣言」が盛り込まれている。(13)
5、委員活動、市民参加の多層性
社会教育関係法制に基礎をおく社会教育委員・公運審活動等にとどまらず、自治体独自の制度として活発に機能してきた小金井市「企画実行委員会」(別稿参照)や東村山市図書館・公民館設置に向けて組織された「専門委員」制度(1975年)の取り組みもみられた。(14)公民館等の社会教育施設の設立あるいは改築にあたっては、他の自治体でも市民・専門家の参加による「建設(改築)委員会」等が組織され活発に機能した経過がある。
さらに法・条例に根拠をもつわけではないが、公的社会教育・施設運営に関わって、多様な委員会や実行委員会・懇談会等が数多く組織されてきた歴史が忘れられてはならない。
公民館活動に関わって例をあげれば、講座準備会、学級運営委員会、記録づくり委員会、保育室運営会議、館報編集委員会、利用者懇談会、公民館祭り実行委員会など多彩である。法・条例に基づく間接民主主義的な委員会活動に対して、当事者が主体的に参加するいわば直接民主主義的な市民参加の組織がさまざま動いてきたこと、それらが相互に関連しあってきた歳月が、多くの活動を蓄積してきた。制度的な委員・審議会活動と市民ボランテイア活動、多層の各種委員活動の重層的な展開が、社会教育行政・施設を支え、自治体における市民自治・参加の厚みに拡がってきた。(15)
それぞれの委員の個別の活動もみられた。たとえば福生市中央公民館運営審議会委員・佐久間登世子さんは「うんしんおばさんだより」を発行(1982~1986年、全178号)、公運審ミニコミとして公民館と市民をつなぐユニークな役割が注目された。
注
1,寺中作雄『公民館の建設ー新しい町村の文化施設』公民館協会刊、1946年、P32
2,国立教育研究所『日本近代教育百年史8(社会教育2)』1974年、p62
3,東京都立教育研究所『戦後東京都教育史(下巻)社会教育編』1967年、p41
4,東京都教育委員会「東京都社会教育長期計画」(1960年)、同「東京都の自治体行政と
都民の社会活動における市民教育のあり方についての答申」(1973年)
5,東京都立社会教育会館「十周年記念誌」1983年、P15
6,東京都立教育研究所『戦後東京都教育史(下巻)社会教育編』1967年、pp132~137、
東京都立教育研究所『東京都教育史』通史編四、1997年、pp1147~1153
7,東京都公民館連絡協議会『東京の公民館三十年誌』1982年、pp227~281
なお1985年調査については、同『東公連公民館白書』1988年、pp1〜41
8,大石洋子「町田市公民館の活動」たましん地域文化財団『多摩のあゆみ』144号
−戦後多摩の公民館活動、2015年
9,鳥海しげ子「田無市公民館職員専門職制度の確立」『月刊社会教育』1979年7月号
10,清水文恵「東京・世田谷区の社会教育委員の『準公選』にとりくんで」『月刊社会教育』
1980年4月号
11,国立市公民館『資料・国立市公民館運営審議会』1989年
12,社会教育推進全国協議会編『社会教育ハンドブック』(1979年)同『改定・社会教育ハンドブック』(1984年)、「障害者の学習」の項参照
13,奥津とし子「市民主体の豊かな学習の発展を−保谷市の社会教育の蓄積を生かした生涯学習計画づくり」『月刊社会教育』1995年10月号
14.社会教育推進全国協議会編『社会教育ハンドブック』(1979年)「社会教育における員制度」の項、pp310〜313
15、小林文人「住民参加と自治の可能性をさぐる−公民館運営審議会の役割を通して」『月刊社会教育』1990年4月号。「自治体の社会教育委員会議・生涯学習審議会を問う」同、1995年11月号
東京社会教育史編集委員会[編]
大都市・東京の社会教育−歴史と現在
(エイデル研究所 2016年9月刊 A5判570頁)
*社全協通信268号「自著を語る」
2017年1月
当初の書名案は「東京社会教育史の研究」、歴史書の企画であった。20年前に刊行された『東京都教育史』(1〜4巻、東京都立教育研究所・当時)のなかで、ブランクとなってしまった「戦後・現代史」(第5巻・未刊、経過は本書「まえがき」参照)を埋めようという思いからであった。その後の編集過程で、歴史書にとどまらず、「大都市・東京」社会教育の“現在”を確かめ、展望をえがく一冊を創ろうという作業に拡がった。
東京の社会教育が大きく転換し、とくにこの20年来、東京都行政が「解体」に近い状況に陥っている事態への危機感があった。歳月の経過とともに「市民の記憶」から社会教育が遠ざかりつつある現状への焦燥感、稀少資料・記録が散逸・風化していくことへの喪失感も重なっていた。なんとかしたい思い。小さくてもいい、一冊の本をまとめよう、そんな有志の語り合いが思い出される。そして満4年にわたる編集作業を重ねるなかで、取り上げる項目は次々に増え、結局600頁に近い大型本となった。出版に向けて積極的に対応して下さったエイデル研究所に感謝している。
編集委員会(代表・小林)は、斉藤真哉、野々村恵子、井口啓太郎、石川敬史を事務局として総勢14名、執筆には40名の皆さんが参加された。「幸いなことは執筆者のほとんどが執筆テーマに関わって“生きた記憶”の持ち主であったことだ。」(本書まえがき)
本書編集にあたって、私たちが心がけたことは次の諸点である。(1) 東京社会教育・現代史の通史を綴ること。(2)稀少資料・記録を調査・収録する。(3)狭い社会教育行政の枠を脱し大都市独自の社会教育的活動の拡がりに注目する。(4)歴史当事者の世代から次世代の担い手への対話の機会とする。(5)歴史をふまえつつ、これからの社会教育の未来に向けて展望を試みる。もちろん不十分な点を多く残しているが、大都市社会教育研究としての一歩を刻んだ実感をもっている。
全体を貫くキーワードは、東京社会教育の“復権”である。終章には「展望・東京社会教育・10の提言」を掲げている。やや広い視点から、これから追及していくべき課題と方向を提示してみたつもりである。本書へのご批正をいただきつつ、東京だけでなく他都市においても社会教育の展望を論議する上で参考になればと願っている。(小林文人・編集代表)
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